資本主義への疑問と、その価値のなさ
私が組織に、会社に、営利団体に入り働いていく理由は、人を幸せにし、可能性を広げ、夢を与え、毎日の当たり前を作るため。その理由は、お金を生み出すため。
私にできることは、お金を生み出すことをいかに言葉にしないか。
ばれないように、綺麗に見えるように、上品にこなすか。
就職活動に、もう飽きた。
そんなことをいったら笑われると思う。失望される。キャリアドバイザーやらリクルーターとやらに。役員や三十年後の自分に。
お前は何もしていないし、聞かせる価値が生まれるように言葉を紡ぐのだって立派な社会人としての能力だし、それができないってことはそれまでの人だったってだけだよ。ベツニスゴクモナイ、トクベツデモナイ、ただのおちこぼれだよって。
すごくばかばかしくて、そうじゃなかった過去の自分に恥ずかしくて、でもどこか誇らしくて、いろいろしている自分に、つまりはお金を生み出している風に出来る誰か風になったことに、酔っ払っていたんだと思う。
素直になっちゃえば、ただのわがままなんだろう。
わざわざ遠回りをして、自分は人とは違うよって言うことを伝えるための、長い長い言い訳だったんだと思う。
でも本当の心の底に、ぽつんと、もっと言えば当たり前のようにそこにずっとあったみたいに、残っているのだ。
この資本主義社会に生まれてきてしまったこと。競争社会を激化させる自分にもならなくてはいけないこと。に、萎えてしまったのだ。
できるならずっと酔っ払っていたくて、そうすることで自分にも社会にも目の前のあなたにだって、目を見て心の底からの嘘をつきたかった。
だから時々そうではない彼女に言葉をもらうことでしか、私はシラフと泥酔とを行き来できなくなっている。できなくなってる。
ここから下の言葉は昔書いた言葉でありますので何を言いたいのか全くわかりません
大事なことを、もう大事にできて、それをするのがとても簡単であると、
働くということはあまりに乖離されている。