気分や大学生のぶろぐ

映画や本や歌、私の経験したことについて思った事を好きなように書いてるだけです。好きなものも嫌いなものも。ハタチです

頭のいい人は点と点を結んで線にするのが得意

頭のいい人は

 

 

私が頭をひねってやっと生み出し、紡いだダラダラとした言葉をぽんっと一言で、言い換えてくれる

 

ああでもない、こうでもない、この言葉を使うとニュアンスがずれてしまう、この言葉とこの言葉をつなげば大方わたしの思っていること通りの意味になる。

そうやってできた文章を、考えを意図もかんたんに他の言葉に言い換えてくれる

 

そうじゃないのに、言い換えてくれる

公式であるということ

タイトルだけ書いては本文になにもかかずに、保存されていた記事。

 

だからきっとタイトルと本文とがちぐはぐどころか、繋がりが見つからない。

あるいは優秀な読み手だったならそれを見つけてくれるのかな。

 

もう春になってからだいぶ時間は経っているのに、まだまだ私はあ、春だ、と思う日がある。

ふわっと目の前を過ぎる風が生暖かかった時

とっても寒い夜がどこまでも続くのかと思ったのに、朝起きたらコートが要らなかった時

AppleMusicで不意に、清水依与吏のぬったりした声が聞こえた時

 

好きな人の好きなものでありたいという思い。強い思い。それでいっぱいいっぱいになって息ができなくなるなんて、なんて恥ずかしくて、でも幸せなことなんだろう。

なにも考えなくていいくらい、好きな人の好きなものを好きになりたいと、本気で思っていた。

 

だから、聞いたこともない60年代のロックを聞き、アメリカのポップを聞き、ジャズのかかる喫茶店に通いつめた。

そんな日々もずっと好きだったし、そんなこともずっと好きだった。

 

それでいつの間にか私も彼らに詳しくなり、界隈の中でトレンドを追えるようにもなった。

 

彼と別れた。

Spotifyではアイドルを聞くようになったし、時間が空いたらタピオカのお店にいくようになった。私はこれらが、好きだった

 

 

 

彼が好きだと言っていたあの曲、あのバンド、全然好きになれなかった。

それが寂しかった。

だからどうとかいうものでもないんだけれど。

想像力のない女が嫌い

 

彼女は私の幼なじみである。

幼なじみとは別に。幼稚園も同じじゃないし、小学校も違うし、出身が同じわけでもない。

ただ価値観がおんなじなのだ。何が気に食わなくて、何に対して打ち込めて、何に感動して、何に傷ついて、何に元気をもらうとか。そういう。少し話しただけで結構な理解ができる、そんな仲だ。

中学高校と同じ部活に所属していたから理解が早くなったのだろうか。はたまた、末っ子だからわかりえるのか。もしくは本当に運命的に、感性が同じだったのか。

何にせよ、自分の感じたことに一緒になって加勢してくれるというのは、どうにも嬉しい。強くなった気がして、まるで私達が怖いものなんて何もないかのような、そんな唯一無二の存在みたいに思える。

私達はバイト先の同期についてネチネチと考察をし、世の中の不条理にふつふつと怒り、旅行の楽しさとやらを熱心に語った。そうやって過ごし、少しずつ乗り越えてきた

 

大学を卒業した。就職をした。

男の人とそういうこともして、女になった。

そして、無力になった。

私達にはちゃんと怖いものがあって、それを怖いと言えるようになるくらい、大人になった。

と思っていた。わたしは。

 

彼女は彼女であり、大きな社会の渦の中で彷徨っているのは彼女であり、そしてその彷徨いを持ち前の人間性とやらで乗り越える、ことを知っている。彼女は。

私はそうではないけれど、当然のように幸せになれると、彼女は信じて疑わない。それは心からの信頼というよりも、それ以上考えたとて何も生まれないのでそこで停止している、という現状ではあるが。

彼女はそうなのだ。信じたら疑わない。その強さがある。

いつのころか、ああ、浅はかだなと私は思い

きっとそのたびに彼女もまた浅はかだと感じていたのだろう。

 

私は想像力のない女が嫌いで

彼女はその無意味さゆえ求めない。

 

 

特別と特別じゃないの違い

兄が婚約した。

人生をともに歩む一人のパートナーを決めて、それを周りにもきちんと伝えて、そして実際に二人で生きていく。

またとないことで、かんたんにできることではなくて、それまでの人生すべてがぎゅっとその決断に詰まっている。特別。すごくすごく、特別。

そんな特別なことを、私と同じ人から生まれてきた6歳上の女の人も、4歳上の男の人も、するするっと、やっている。お昼ごはんはカレーだったから、夜ご飯はカレー以外のものにしましょう、という発想くらい、当たり前のように。決まっていたことのように。

ちょっと違うか。

特別なことと特別じゃないことなんて、私次第でどうにでもなる。

どうにでもなる、は嘘かもしれない。

こうしたい、と思っていたってそれまでに持っていた価値観や偏見や文化とやらが私の身体の中に根強く残っている。

高校生のころ、部活の前にパンを食べてた。部活が終わったら、ファミチキを食べてた。毎回毎回食べるから、あれはもう汗とバレーと体育館の味になっていた。あれらを、わたしはもう特別って思ってる。はずなのに、どうしてだろう。たしかに特別で、今では出来得ないことなはずだけど、特別、なのかな。本当に。

姉や兄がするすると結婚していったように、特別なものなんて、幻想なのかもしれない。

私が何かを大切で、何かを大切じゃないなんて、幻想なのかもしれない。

彼が何かを成し遂げたとか、彼女は才能があるとか、私が不満を持つなにかなんてものもほんとうは、ただそうなりたくて、そうなっちゃってて、そうならざるをえなくて、そうなるように誰かに言われただけで。

特別だとか特別じゃないとか、

 

 

と書いたところで書けなくなりました。何を書けばよかったんだろう

資本主義への疑問と、その価値のなさ

私が組織に、会社に、営利団体に入り働いていく理由は、人を幸せにし、可能性を広げ、夢を与え、毎日の当たり前を作るため。その理由は、お金を生み出すため。

私にできることは、お金を生み出すことをいかに言葉にしないか。

ばれないように、綺麗に見えるように、上品にこなすか。

就職活動に、もう飽きた。

そんなことをいったら笑われると思う。失望される。キャリアドバイザーやらリクルーターとやらに。役員や三十年後の自分に。

お前は何もしていないし、聞かせる価値が生まれるように言葉を紡ぐのだって立派な社会人としての能力だし、それができないってことはそれまでの人だったってだけだよ。ベツニスゴクモナイ、トクベツデモナイ、ただのおちこぼれだよって。

すごくばかばかしくて、そうじゃなかった過去の自分に恥ずかしくて、でもどこか誇らしくて、いろいろしている自分に、つまりはお金を生み出している風に出来る誰か風になったことに、酔っ払っていたんだと思う。

素直になっちゃえば、ただのわがままなんだろう。

わざわざ遠回りをして、自分は人とは違うよって言うことを伝えるための、長い長い言い訳だったんだと思う。

 

でも本当の心の底に、ぽつんと、もっと言えば当たり前のようにそこにずっとあったみたいに、残っているのだ。

この資本主義社会に生まれてきてしまったこと。競争社会を激化させる自分にもならなくてはいけないこと。に、萎えてしまったのだ。

できるならずっと酔っ払っていたくて、そうすることで自分にも社会にも目の前のあなたにだって、目を見て心の底からの嘘をつきたかった。

 

だから時々そうではない彼女に言葉をもらうことでしか、私はシラフと泥酔とを行き来できなくなっている。できなくなってる。

 

 

 

 

ここから下の言葉は昔書いた言葉でありますので何を言いたいのか全くわかりません

大事なことを、もう大事にできて、それをするのがとても簡単であると、

働くということはあまりに乖離されている。