気分や大学生のぶろぐ

もう23なの

成長するために人と会う訳でもないでしょ?

何かを知りたかったときに、私は適切な質問ができない。気がする。

どんな質問をすれば聞きたいことが聞けるのかって、結構大事で、頭の良さがでる。ちゃんと聞けて、得られて、それにリアクションすることの難しさって、きっと意識しないとわからない。特に日本語だと、会話があっちこっちいったとしても何もなく、ふわっとその場を成立させることができるから。

普段からそう。
相手の好きな映画を知りたいからといって、好きな映画を聞く。その人が映画を好きなら完全なる映画論を説いてくれるだろう。けど、多くの人はそうではない。映画かぁ、あんまりみないなぁ。そういった時点でこっちも落ち込む。あぁ、映画見ない人なんだ。同時に相手も困惑している。映画なんてなんで聞いたんだろう。映画見たいのかな。話題の映画とかおすすめがあるのかな。こちら側としてはそんなものはない。多少、好きな映画が同じだったら運命を感じるなくらいの気持ちであるけれど、そんな奇跡を到底信じてはいない。ただ、人となりを知りたいための映画なのだ。あるいは、相手に興味を持てるフックとなり得るものとしての映画なのだ。どんな課題をも期限に余裕持って提出している彼女がアベンジャーズを好きと言っても、coenのトートとアイボリーのジャケットが似合うあの子が海街ダイアリーを好きだと言っても、金髪とピアスの彼がコナンを好きと言っても、それから眼鏡の彼が東京物語を好きと言っても。映画を通してだったら、どんなギャップも、非ギャップも、フックになれる。
あるいはそんなことはどうでもよくて、私は映画というフィールドに相手を引き込みたかったのかもしれない。特別大好きというわけでもないけれど、すきとこころから言えることを話すときは、自分は寛大になれる。
ともすれば、好きな映画なに?の質問はまったく効果的ではない。遠回りすぎる。

遠回りすぎて、聞きたいことが聞けない。話したい話をできない。退屈になるかもしれないし、時には幻滅し合うかもしれない。
思ったことがそのまま実現されたら、どんなにラクだろう。
もちろん激しさや苦しみはないけれど、安心や落ち着きはある。
知りたい意欲があるときに、ECのようにポンと、しっかりとほしいものが手に入る。それは効率的で、はたまた計画的成長のように見える。いわゆる、レール。計画的。エリート的成長なのだ。

知りたかったことがあるときに、私は適切な質問ができない。
それが本当に知りたいのかわからない。
何を知りたくて、なぜ知りたいのか、誰にどうやってきけば良いのか、わからない。
それをわかったほうがいいよっていう大人も、沢山いると思う。わかるべきだという人も、沢山いると思う。




知りたいことを、ちゃんと知るために生きているわけでもないからなぁ。